
©桑原史成
桑原史成写真美術館の今回の展示は「東日本大震災から10年」を展示します。
2011年3月11日、午後2時46分18秒に宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmの海域が震源地とされ、マグニチュード(Mw)9.0で岩手県から宮城県、福島県、茨城県、千葉県に至る東日本の海岸部の陸地に甚大な被害をもたらした。この数値は日本で観測史上はじめとされる。震度は7が観測された。
僕が撮影で現地を訪れたのは、20日が経過してのことである。東京からレンタカー(ワンボックス・カー)に車の燃料や、同行の若い写真家・渡邉祐一君との2人分の食料や水、更には暖房についても準備した。燃料(ガソリン)の補助タンクが関東では品切れで、津和野町役場が非常時に際して所有しているのを急遽、2個ほど送って貰った。
4月1日、東京から東北自動車道で北上して盛岡に着き、そこから震災地の宮古市(岩手県)に入る。眼前には新聞やテレビで見た惨状がひろがっていた。東北地方の太平洋側の地域を「三陸海岸」と言い、震災前の長閑なリアス式海岸での暮らしぶりを思いおこし唖然とした。僕たちは、通行可能な道を探して次の被災地に辿り着く。撮影した主な現場の地名を北から順に羅列する。岩手県で宮古市、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市、宮城県に入り気仙沼市、南三陸町、石巻市、女川町、東松山市、名取市、亘理町、山元町。福島県では南相馬市の先は通行止めで撮影を終えざるを得なかった。
以降は、2度ほど同じルートを南下して復興の状況を記録する。福島県の被災地には幾度も訪れ、津波の災害の他に原発の被災が発生している状況とその後の復興を記録した。住民が退去を余儀なくされた「避難地区」、浪江町、飯舘村、双葉町、大熊町、富岡町、葛尾村、南相馬の一部地域をしばしば訪れた。
この3月11日で、東日本大震災は10年の節目を迎える。これまでに発表された死者と行方不明者の数は18,427人とされ、震災から9年間で復興費に23兆円が計上されている。津波は地震の発生から遅れて到達するが、その津波の高さは地域によって異なり約10m前後であるらしい。但し海岸の地形や湾の形状で津波の波高は20mにもなり、更に河川や地面の形状で遡る遡上の高さは40mにも及ぶとされる。
この10年間で垣間見た僕の「東日本大震災」の記録写真を展示しました。この度の取材を通して地震と津波の怖さは言うに及ばず、万が一ですが、原発の核の放射線による被爆の恐ろしさは、電力のもたらす豊かさと共に双刃の剣です。
報道写真家 桑原史成
|